「価値」にいついて

「価値」について

以下超長文。

私自身、認知症についてはソコソコ勉強しているつもりだが、FBで繋がっている方々は、私より遙かに勉強していて、私より遙かに深く関わっている方が多いので、ご意見があれば教えていただきたい。

患者さんとか、知り合いとかには「認知症になったら安楽死させてあげればいいのに」とか「認知症になったら死にたい」とか言う人がまぁまぁいらっしゃる。

認知症にならずとも、定年迎えて仕事をしていない人は、社会的に役立たずで税金の無駄遣いだから早く死ねばいいし、その分をこれからの若い世代のために使えばいいのにみたいな事を言う人もいる。

それを「ひどいこと言う人だな」で片付けるは簡単だが、単純に知識の不足や認識の不足だけではなく、身内に高齢者や認知症の人がいて様々な苦労をしていてという場合もあるので、その人それぞれの「事情」というものもあると思って聞いている。

「事情」というのは人それぞれで、「高齢者になったら車の免許を自主返納を」と言ったって、ウチの近くの高齢者は車がないと生きていけない地域に住んでる人も多い。
最近の小さな子供が殺されるような事件には心が痛むが、それを「そんな奴、死刑にすれば良いのに」って言うのは簡単だが、俺が最初に思うのは、「彼と同じ環境で生まれ育っていたら同じ事をしていたかもしれない。そんな事にならなかった自分の生い立ちに感謝しないといけないな。」という事である。犯罪者にも犯罪を犯す「事情」がある。

思うに「認知症になったら死にたい(死ねばいいのに)」と言う人は、人の価値を「生産性」に見いだしているのだ。
「生産性」を価値の基準にすると、不幸を感じやすい。
生まれたての赤ん坊に生産性はない。生産性で考えれば価値はゼロかマイナスだ。
「いや、赤ん坊には将来がある」と言うかもしれないが、高齢者にも認知症の人にも時間は相対的には短いかもしれないが将来はある。「生産性」を基準に考えると様々な場面で矛盾を生じる。

この生産性に価値を見いだす原因は、社会にある。
働くようになると、「もっと効率よく、もっと働け、もっと稼げ、もっと自分の価値を上げていけ、それがより会社のため、社会への貢献となるし、あなた自身も幸せになる。」と教えられる。それは間違いではないが、いつの間にか価値の基準が生産性のみにあると洗脳され、「働かない人は無価値だ」と思うようになる。学生時代が許されるのは生産性の高い社会人になるためのモラトリアム期間だと位置づける。
会社が倒産したりリストラされたりすると「俺は無価値だ」と落ち込み、自分が価値あるものだと思いたいがために資格を取ったり大学院に行ったりする。
「間違ったことはしていない」と思いつつ、どこかに不幸な自分を感じている。

「生産性」を価値の基準にするのを止めよう。

私自身、高卒の父親に育てられ、歯学部に行き、歯医者になり、勤務医になり、開業し、法人化し、不動産投資を始めて、その法人を作り代表になった。その築いてきたものを自分の価値基準に置いていない。築いたモノは崩れる(可能性がある)。崩れた時に自分の価値がマイナスになるとは思わない。産まれたときと同じゼロに戻るだけだ。そこからまた始めればいい。

寝たきりの人も、認知症の人ももちろん価値がある。その人がいるから医療関係者、介護職の人達は報酬を貰い生活することができる。自分の人生観、死生観を育てる良い見本となってくれている。自分が認知症になった時に、安心して認知症になれる世の中に変えるための努力をしようと思わせてくれる。

「あなたは生きているだけで十分な価値がある」
それは忘れないでいてほしい。

(医)聖湘会

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